114冊目『わたしのすきなやりかた』
「あのね、わたしのすきなやりかた としては えいようまんてん バランスのよいしょくじ ということ なんだけれどね…」
男の子とお母さんの“やり方”を双方の視点で描くおはなし。こちらは“わたし”の好きなやり方。
お母さんのやり方は、“ぼく”のやり方ほど自由でわがままなものではない。わたしは“ぼく”と一緒にするやり方で動いている。
「わたしのすきなやりかた としては あいするものをえがく ということ なんだけれどね…」
わたしが描いている愛するものは、“ぼく”こと自分の子どもの絵。おそらく椅子の上でじっとさせることはムリなので、この絵は完成に至ることはないのだろう。でもそれでいい。描く、ということがそもそもわたしのやり方であるのだから。
音楽も、“ぼく”
のやっていた騒音ではなく、
「わたしのすきなやりかた としては まいにちコツコツ ともかくれんしゅう ということなんだけれどね…」
とバイオリンやたて笛、“ぼく”と違いきちんと楽器を演奏している。
とここであることに気づいた。“ぼく”の本では行動や行為を全て「こんなこと」「こんな感じ」と曖昧に表現していたことが、わたしの物語ではきちんと言葉で表現されているのだ。それはそれに値する言葉が見つかった、ということでもあるのだろうが、生きていくうえで、自分の“やりかた”を言葉で説明できるようになったのだ。だから“ぼく”の「こんな音楽」に相対する言葉が「まいにちコツコツれんしゅう」という、音楽への姿勢をあらわすものになっていた。その後も、
「すきなやりかたとしては ちいさいいのちをいとおしむ ということ なんだけれどね…」
や、
「すきなやりかたとしては おもいでをたいせつにする ゆたかなじんせい ということ なんだけれどね…」
とぼくの行為としての“やり方”とは違う、姿勢や考え方としての“やり方”になる。もしかするとこれが大人と子どもの決定的な違いなのかもしれない。
そして“ぼく”のほうで書いたとおり、違いがあっても一緒に生きるのが家族だ。時にわたしは“ぼく”の前から姿を消す。
「すきなやりかたとしては べつにいなくなったわけでも かくれたわけでもないんだから、さわがないでほしい んだけれどもね…」
むちゃくちゃやっていた“ぼく”が、お母さんが見えなくなったとたんにとても不安そうになる。そして大声でわたしを呼ぶのだろう。とても愛しい一ページだ。
お互いに好きなやり方をしていても、一緒のソファーで眠ることが出来る。人と違うやり方で生きることは、実はそう難しいことでもないのかもしれない。温かい2冊。ぜひ同時に。
「けれどね…。」