31冊目『葉っぱのフレディ』

 

葉っぱのフレディ―いのちの旅

葉っぱのフレディ―いのちの旅

 

「はじめフレディは 葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが やがて ひとつとして 同じ葉っぱはないことに 気がつきました。」

 

生まれた葉っぱのフレディが、やがて命を終えるまでのおはなし。

絵本の感想をこうやってネットに残していると、実際あった人から「読んでるよ」とか「楽しみにしてるよ」との言葉をいただく。本当に推敲もなしでバンバン書いてるので恥ずかしくてならないけど、それでも得したなあと思うのは、たまに「あの絵本がスキだったらこういうのも好きだと思うよ」と紹介してもらえるところにある。自分は結局自分ひとりでは辿り着かなかったから今まで絵本を読んだことがなかったわけで、好きをアピールしつづけることのこれは一番の利点だと思う。 

 

ということである知り合いに薦められたこちらの本。絵本というよりはフォトブックに近い本作(絵がはさまれるところには実際に撮られた木の葉の写真が載っている)は、冒頭で作者が「この絵本を死別に直面した子どもたちと死について的確な説明ができない大人たちに贈ります」とあるように、死を受け入れるための物語だ。もっとも死とは、その瞬間に全てが消える類のものではない。春が来て夏が過ぎて、秋になり冬を迎え、また春になるように、その循環の一つとしての死。

 

「葉っぱに生まれてよかったな」と思えるようになったフレディはずっと葉っぱのままでいたいと願うけれど、冬がきて老いれば命はそうはいかない。大人になり葉が紅葉するようになったとき、「生まれたときは同じ色でも いる場所が違えば 太陽に向く角度が違う。月の光 星明かり 一日の気温 なにひとつおなじ経験はないんだ」との言葉どおりさまざまな色で紅葉するフレディたち。ここまでずっと人間の一生で、つまりは死の瞬間も全員に訪れる。

「ぼく 死ぬのがこわいよ。」と呟くフレディに聡明な友人が一言をくれる。これはこの絵本のテーマであり、とても普遍的ででも大切な言葉だと思う。

「ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」その循環や、普遍的な死のなかで意味を持つのはとても難しいことに思う。けれど「自分にしかできないことにこだわっていたんだと思います」(『子供はわかってあげない』より)のように、意味はあとからついてくるものだから、そのときに知っておく必要はない。

「フレディは知らなかったのですがーー冬が終わると春が来て 雪は溶け水になり 枯れ葉のフレディは その水に混じり 土に溶け込んで 樹を育てる力になるのです。」

 

多少宗教色はあるものの、写真とそこに付随する命の物語としてたいへん素晴らしい作品だった。“絵本の可能性”なんて言葉は使いたくないけれど、これも一つの手紙としての物語だ。読んでいる最中、映画『空気人形』にて、印象的に使われる吉野弘の『生命』という詩を思い出したので、そちらで締めたい。

「生命は 自分自身だけでは完結できないように作られているらしい

 花が咲いている すぐ近くまで 虻の姿をした他者が 光をまとってとんできている

 私も あるとき 誰かのための虻だっただろう

 あなたも あるとき わたしのための風だったかもしれない」