120冊目『だいじょうぶカバくん』
「おーい、名前はわからないけど、そこの女の子!ぼくをここから出してくれませんか。」
動物園を抜け出したカバくんの、その後の生きる道のおはなし。訳が名訳だと思う。
まず一文目からその文章に惹きつけられる。
「カバは、ふつう、ヒトのことばをはなしません。」
そのとおりなのだけど、何でもありが当たり前の絵本において、この世界ではカバが喋ることは珍しいことですよ、という説明と、次の
「ですから、とある午後、カバのおりの前で誰かが話しかけてきたとき、ロサーナはビクッとして、いったいだれがいったのだろうと、キョロキョロあたりをみまわしました。」
に巧く繋がる。そして物語はここから始まる。
「ロサーナに話しかけてきたのは、まさにその“川のブタ”(古代エジプトの人々は、カバをそうよんでいたそうです。)でした。」
この本の可笑しみの一つとして、説明台詞というか、読んでいる読者側に語りかけてくるような言葉がいくつも存在する。読者はカバくんの冒険を見守る登場人物の一人だ。そして最後に大丈夫といってあげられるのも、読者の想像力である。
カバくんは女の子の力を借り、檻から出ることに成功した。
「ぼくはカバです。カバじゃそっけないから、カバくんとでもよんでください。そのほうが、したしみやすいでしょう。」
カバくんは知恵をつけて言葉を話すようになったばかりだからか、敬語が多少うっとうしい。紳士ではあるが、その分強い物言いをすることもある。
「みんな人のことなんかかまっちゃいないんですから。じつに身勝手なものです。現代の病ですね。」
これには女の子もカバくんにこういった。
「うちのおじいちゃんと同じこといってる!」
カバくんのいったとおり、カバの一匹が脱走しても誰も何もいってこない。むしろカバくんのほうから声をかけにいって、
「こっちはおまえさんにつきあっているヒマはないんだ!」
と追い返される始末。みんな自分のことに忙しくて、カバくんの自由に付き合っている暇はない。だからカバくんは自分自身の手で自由をつかみに外にでた。ガラスを割りかけてお店の人に怒られたり、歩く人に道を尋ねながら、カバくんはふるさとに帰る道を探した。
「『だけど……きみはカバじゃないか?』
『そうですよ。』カバくんは、さらりといいました。
『だと思ったよ。』」
本作にはたくさんの動物が登場するが、喋る生き物はカバくんだけで、残りは他人に冷たかったり、カバくんを助けてくれたりする人間だけである。他の動物だちは基本的に、そんな人間たちに飼われている存在としてでてくる。それは、ちっとも自由に気づかない愚かなものとして描かれているのか、それとも本来あるべきものとして描かれているのか。作者がどこまでこの物語にこめたのかは想像できないし知るよしもない。カバくんは一人町を歩く。
「ビルの向こうからのぞいてるお月さまが、街の小さな公園を明るく照らしています。」
「暗くなった道は、もう車は一台もとおっていませんでした。」
次にカバくんが訪れるレストランで、マナーにうるさいおばさんがでてくる。奥さんはうるさいが至極全うなことをいい、そのままぷんぷんとしてレストランを去る。
自分のことしか考えてない人間はいつだって怒っている。逆にいうと、怒っている人間はいつだって自分のために怒っているのだと思う。マナーやルールを傘に誰かの自由をうばい、相手をはらはらさせる。そんなおばさんと対照的に、知恵はあるけど経験則のないカバくんは落ち着き人に言葉をかける。ごめんなさいと、ありがとうを言葉にする。カバくんの優しさには、マナーもルールもなく、ただ心があった。
「このお店にカバがきたのは初めてだったの。あんなにおいしそうに食べるところを見られて嬉しかったわ。だけど、気をつけて。どこの店でもこんなふうにいくとはかぎらないから。」
ウェイトレスのお姉さんはそんなカバくんに生きる知恵を伝えた。それはカバくんが檻のなかにいつづけていたら一生知ることのなかった知恵だ。
「カバくんは、歩き始めました。」
ラスト、カバくんはほとほと疲れはて、動物園の前に戻ってきてしまう。
「ここではない場所にいきたかったのに、またここに立っています。」
目の前には保護者とでもいうのか、警備員のおじさんがにやにやこちらを見ていた。確かに再び安息の地へ戻り、再度挑戦するのが一番の得策だ。でもそうしてはいけない。それじゃだめなんだ。カバくんは決心する。
「くるりと回れ右をすると、どこへともなく、また歩き始めました。
のそりのそり。ふるさとに帰る道はいつかだれかが教えてくれるだろうという、あわい希望をむねに。」
温かく、しかし辛らつな目線で“生きる”を切り抜いた秀作。訳が本当に良くて、どの文章も声に出して読みたくなる。切ない文章で終わり、最後にカバくんが、どこかで幸せな家族を築いている絵を見せる余韻も素晴らしい。大丈夫、人は(カバだけど)なんとか生きていける。大丈夫なんだ。大丈夫カバくん。
「チャンスはいつかめぐってきます。きっとね。」
119冊目『10ぴきのいたずらねこ』
- 作者: メンシェ・ファンキューレン,ヤンユッテ,Mensje Van Keulen,Jan Jutte,野坂悦子
- 出版社/メーカー: 朔北社
- 発売日: 2002/12
- メディア: 単行本
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「いっぴき くしゅんと かぜをひいて のこるは……9ひき」
10匹並んだいたずらねこたちがだんだん姿を消していくおはなし。怖い話ではありません。
雨の表紙が気になったので読んだ。たいへん好みの内容でした。
「10ぴきの いたずらねこが あめのなかを あるいていたよ」
いたずら猫たちは、特にいたずらで誰に迷惑をかけるでもない。ただずっと並んで歩くことはできないようで、みな思い思いの行動をしてバラバラになっていく。
「9ひきの いたずらねこが ねずみを つかまえにいったよ
いっぴき しっぽに じゃれついて のこるは……8ぴき」
「7ひきの いたずらねこが ふえを ふいていたよ
いっぴき たいこが たたきたくなって のこるは……6ぴき」
太鼓ぐらい叩かせてやれよと思うけれど、太鼓を叩くことに無我夢中になって他の猫の事を忘れてしまういたずら猫を想像するとずいぶん愛しい。1ページごとにいっぴき猫が違う行動をとるのだけれど、その横には必ずそいつを心配そうに見つめる猫がいるのもかわいらしい。
仕方がない。そいつは太鼓を叩きたくて、叩きたくて、いてもたってもいられなくなったのだ。みんなと違う行動をとることがわかっていても太鼓を叩きたかった。そういうやつのことを、この本では“いたずらねこ”と称す。
消える理由で一番いいのは3匹目の猫だ。
「3びきの いたずらねこが うみに もぐったよ
いっぴき アメリカめざして およいでいった のこるは……2ひき」
アメリカすげえもんな。分かる。でけえし。
他二人が頭をタオルで拭いている中、そいつは都会の灯りを目指して泳いでいった。いたずらなんかじゃないよ、アメリカンドリームをつかんできてくれ。ただ、残った二匹は二人してとても寂しそうなのが印象的なページ。
見開き左のページには数をカウントする猫が必ずいてそのデザインも素敵。そしてラストには、消えていった仲間たちが、雨の降るなか再登場。
「あのね このねこ いま ウィンクしたよ どうしてだろう?
だって いっぴきで 9ひきぶん いきている いたずらねこだから
ほら その いたずらねこが また あめのなかを あるいていくよ
いたずらなかまに よびかける 9ひき そろって さあ でておいで」
仲間が集まればそれだけで幸福だ。その証拠にその街の看板には、でかでかと“SUNNY”という文字が書かれている。
面白かったし、隅々まで凝ったイラストは何時間見ていても飽きない。子どもに数を教える本としても使えるだろう。つい、最後まで残っていた猫は始めどんな顔をしていたのか気になって何度も読んでしまった。良作です。
「いたずらねこを ぜんぶ もういっかい みたい?
じゃあ また さいしょから いくよ なんびき いるかな……」
118冊目『バイト犬』
「こうして毎日 おそうじして歩いてる いまどきめずらしい犬だ」
バイト犬と名乗る犬のほんわかしたおはなし。ちょっとセクシャルなのはなんでだろう。
真っ赤な表紙が気になって読んだ。内容はどうということもないけれど、時々挟まるポエム的文章が楽しい。
「イカしてるあの娘は いつもしらんプリ
だけどさ ぼくはあの娘が好きだよ ほんとに
イカしてるあの娘は 波乗りが上手で いつもクール
こんど ぼくのホーキに乗って 海にいかない?
あー ドキドキしちゃうよ」
バイト犬はいつもまぶたを重そうにしていてとてもキュートだ。あと、ホーキに常にまたがっているのだけれど、なんとこのホーキからは水が出る。うれしいとちょっと立つ。股にこすり付けたりもする。ちんちんですか?ちんちんではないらしい。
「さかだちカバに会った 変なヤツだと思った」
お前も充分変な犬だよ、と思ったらページの隅にそう書かれていた。
「いっとくけど おれはバカじゃないぞ おれはカバだ わかったな」
今読んでいてもこれが何の感情を想起させるものなのか分からない。そういうものからずいぶん離れたところにこの文章はある気がする。
「ぼくは さかだちカバと 友だちになりたいと思った
また会う約束をして別れた」
バイト犬が向かう先にはなんだか美しいものがある気がする。分からないけれど、なんだかそんな気がしてしまう。それが本作の一番の魅力だ。
「ぼくのイカしてるあの娘に 花をあげよう
サンセットまで まだ間に合うから
いっしょに波乗りにいこうよ
陽が沈むとき あの娘といっしょにいたいよ
みんなオレンジ色になって
波の音を聞きながら あの娘の肩を抱くのさ」
犬ではなく狐につつまれたような気持ちになるが、最後の余韻はとてもいい。①、ってあるけど続きがあるのかな。うーん。
「……ベイビィ」
117冊目『ひとつ目巨人のモノ』
「モノには、ほかの巨人たちとちがって、顔のまんなかにひとつだけしか 目がありませんでした。でもそれは、きれいな目、とっても大きな目でした。」
一つ目巨人のモノを悲しませないために、もう一つの目をプレゼントするおはなし。でも一つ目であること自体は悲しいことではない。
1998年の本で図書館から借りてきたものなのに、ぴかぴかの新品のようで驚いた。そして内容もとても綺麗で美しい作品。あまり汚さないようにして早く返そう。
「ひとつ目巨人のモノは、とても背が高いんです。モノは、背丈が6メートルもあります。体重だって、ゆうに3トンはあるんです。」
モノはごく普通の巨人。普通の巨人という言葉に違和感を覚えなくないが至って普通の巨人。でも目が一つしかない。とても綺麗で大きな目が一つ。
「ひとつ目巨人のモノは、みんなと同じように笑います。」
「モノはみんなと同じように、人をビックリさせるのが大好き。」
綺麗な藁半紙のような背景に、四角く区切られた窓からモノがこちらを見ている。それはまるで切手のようで、モノの表情一つ一つが誰かに届けるための手紙のよう。
「モノはみんなと同じように、日曜日にはおめかしをして、ぼうしだってかぶります。」
みんなとはどこにいる存在なのか考える。普通の巨人として、他にいる巨人なのか。それとも、今この文章を読んでいる読者のみんななのか。個人的には後者がしっくりくるし、後半、みんながモノのためにしてやれることはなんだろうという話にも繋がる。
「でも、ひとつ目巨人のモノが泣くそのすがたは、みんなと全然違っています。
モノが流すなみだは、ふつうのなみだではありません。そのなみだのひとしずくは、悲しみのために重さが1トンもあるのです。」
体重3トンのモノが1トンもの水分を失って大丈夫なのか、というのは置いておく(“もの”が係ってしまったのも)。モノの悲しさの原因は、自分ひとりがウィンクをできないから。
「なぜって、ウィンクをするのには、ふたつの目がいるんです。だから、ふたつの目をもっているぼくたちは、モノがかわいそうでなりません。」
ずいぶんな物言いだな、と思いながらも、ぼくたち=みんなはモノが幸せになる方法を考える。しかしどの発想も役に立たず、モノはさらに涙を流す。
「だれも、モノの大きな悲しみをわかちあえなかったのです。」
そこで“ぼくたち”は、モノがいつもいる防波堤の先っぽに灯台を建てた。
「てっぺんに大きな目を持った大きな灯台は、一晩中ピカピカと光を放ち、大きなウィンクをくりかえしました。」
「いまでは、巨人のモノはとってもしあわせです。そのしあわせの重さは、すくなくとも10トン以上はあるでしょう。」
大きさで測ることができないものは結構あるけれど、幸せも悲しみも数値にしてみるとこんなものだ。“ぼくたち”の存在が引っかかるけれど、誰かにあげられる優しさの本。
モノはどしんどしんと飛び跳ねる。体全体をつかって、両の眼を使って喜びを表現する。
「ほかの巨人たちと同じようにね。」
116冊目『わたしのとくべつな場所』
- 作者: パトリシアマキサック,ジェリーピンクニー,Patricia C. McKissack,Jerry Pinkney,藤原宏之
- 出版社/メーカー: 新日本出版社
- 発売日: 2010/09
- メディア: ハードカバー
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「もう子どもじゃないわ。ほら見て、こんなに大きな一歩!」
1950年代、人種差別のあったアメリカ南部で、とても大切な場所へ向かう女の子のおはなし。それはそれは特別な場所。
実話ベースの物語だけにとても辛い読み物だけれど、絵本にとって大事な“伝える”という意味を持つ一冊。
「わたし一人で行けるわ。“あの場所”へいっても構わないでしょ?」
主人公の女の子、パトリシアには、世界中でどこよりも好きな場所があった。けれどそこに一人でいったことはまだない。どころか一人で街を歩いたりした経験も少ないようだ。そんなパトリシアを心配するおばあちゃんには幼い子どもを心配する気持ちともう一つ、当時のアメリカにあった“差別”がパトリシアを傷つけやしないか、そんな心配があった。
「どんなことがあっても、胸をはって歩くんだよ」
バスに乗り都会に出かけるパトリシア。バスには当然のように「黒人指定席」があって、どんなに混雑していても黒人はその席にしか座ってはいけない。
はじめてバスに乗ったとき、おばあちゃんはパトリシアにこう説明した。
「あの表示は、わたしたちがどの座席にすわるかを命令することはできても、何を考えるかを命令することはできないんだよ」
差別に心まで屈すると惨めになるだけ。おばあちゃんはパトリシアに、胸をはって歩くことを教えた。パトリシアは、
「“あの場所”のことを考えることにするわ」
と、支えになっている場所のことを思う。
強烈な悪意、もしくは悪も何もないただの“慣習”が人を傷つけるとき、受けた人は心を強く保つことでしか自分を救えない。反骨して逆らって、ただ疲弊して何も残らない。そんな思いをするのならば、己のなかの強さと向き合うしかない。悲観的かもしれないが、みなが世界を革命できるほどの志を持っているわけではないから。パトリシアは、
「こんなの不公平だわ」
といいつつも、
「そうだね、でもそれが世の中というものだよ」
となだめられる。
その後も街には白人専用のベンチがあったり、黒人は入れないレストランがあったり、当たり前にある“不公平”が点在していた。そのたびに、
「パトリシアは胸をはって歩きました。気持ちを集中して、“あの場所”のことだけを考えることにしました。」
と強くあろうとするパトリシア。しかしそんな彼女も遂には傷つき、
「“あの場所”にいくことなんて、どうでもいいわ。お家に帰りたい」
と涙を流してしまう。耳をすますと、そこにいないはずのおばあちゃんの声が聞こえる気がした。
「おまえはりっぱな子だよ。世の中のどんな子にも見劣りなんてしない。“あの場所”にいくのはたいへんだろう。でも、やめるなんて考えちゃいけない。きっと、うまくいくよ」
とうとうパトリシアは“あの場所”の前まで辿り着いた。
「ここは、みんなの“希望”のつまった場所でした。おばあちゃんはここを『自由への入り口』と呼んでいました。
この建物を見ていると、おこったり、きずついたり、はずかしいと思う気持ちが消えていきました。」
何か途方もない、暴力のような力に気おされそうになるとき、人の気持ちは場所に宿る。辿り着きたい場所、迎えたい時間、そして自由。本作の場合その場所は、一番自由で一番神聖で、誰かにとっての“特別”たりえる場所だ。
“特別な人”になるには、世界から認められなければいけないのかもしれない。でも“誰かの特別な人”になるのは簡単だ。その人の一番になればいい。“場所”なら、そこが拠り所になればいいのだ。“特別”とはそんな自由なものであると思う。
パトリシアにとって、50年代南部の黒人にとって、その場所は特別な場所だった。革命は起きなくても、心を自由にできる場所だったから。
「わくわくしながら、パトリシアは階段をかけのぼろうとして、立ち止まりました。正面入り口にある大理石にきざまれた言葉が目にとまったからです。」
この“場所” がいまの日本でも一番自由な場所であることを願う。誰もが自由な選択をして、誰にも差別されることなく、その権利を侵されない。ここはそんな“場所”だ。
「公共図書館:だれでも自由に入ることができます」
115冊目『はなよめになったねこ』
「月の きれいな よるの ことです。」
好きになった男を助けるため、人間になった猫のおはなし。籍はこれ入れてないのでは。
世界名作アニメ絵本より1冊。お話はむちゃくちゃだけれどもそれなりに楽しかった。
街のレストランから聞こえてくるピアノの音が気になった猫のミーシャ。近寄ってみると、 ピアノを弾いている若い男の姿が見えた。少し待っているとその男は店から出てきて、短い間の逢瀬を行う。しかし相手は猫と人間。男が病気をしたときですら、なんの助けになることもできない。猫はそこで、人間になって男を支えることを決意する。
「では 人間に してあげましょう。くすりも あげます。でも おりょうりや おそうじも するんですよ。」
ここから人間の姿になったミーシャが楽しそうに買い物をしたり、火がこわいからと料理をしないくだりがあるのだけれど、正直このあたりが一番読んでいてきつかった。のちに猫の姿に戻ったとき人間に厳しくあたられるのもセットで、なんだかちょっと猫と女を馬鹿にしている気がする。もちろんこれだけ語り告がれているお話でそんなこともないと思うが、何の文句もいわずに最後までミーシャを受け入れ続ける男のことがなんだか可哀想にみえてしまった。つらい目にあったのは君だけだ。
「つらい目に あったんだね。ぼくも、きみと おなじだよ。」
おおむね楽しいけどもアニメの映像があるならアニメでいい気がする。アニメ絵本自体は嫌いでないので、もう少し好きそうな話があったら読もう。
「わかものが ひく オルガンを ききながら、ミーシャは しあわせそうに のどを ゴロゴロ ならしました。」
114冊目『わたしのすきなやりかた』
「あのね、わたしのすきなやりかた としては えいようまんてん バランスのよいしょくじ ということ なんだけれどね…」
男の子とお母さんの“やり方”を双方の視点で描くおはなし。こちらは“わたし”の好きなやり方。
お母さんのやり方は、“ぼく”のやり方ほど自由でわがままなものではない。わたしは“ぼく”と一緒にするやり方で動いている。
「わたしのすきなやりかた としては あいするものをえがく ということ なんだけれどね…」
わたしが描いている愛するものは、“ぼく”こと自分の子どもの絵。おそらく椅子の上でじっとさせることはムリなので、この絵は完成に至ることはないのだろう。でもそれでいい。描く、ということがそもそもわたしのやり方であるのだから。
音楽も、“ぼく”
のやっていた騒音ではなく、
「わたしのすきなやりかた としては まいにちコツコツ ともかくれんしゅう ということなんだけれどね…」
とバイオリンやたて笛、“ぼく”と違いきちんと楽器を演奏している。
とここであることに気づいた。“ぼく”の本では行動や行為を全て「こんなこと」「こんな感じ」と曖昧に表現していたことが、わたしの物語ではきちんと言葉で表現されているのだ。それはそれに値する言葉が見つかった、ということでもあるのだろうが、生きていくうえで、自分の“やりかた”を言葉で説明できるようになったのだ。だから“ぼく”の「こんな音楽」に相対する言葉が「まいにちコツコツれんしゅう」という、音楽への姿勢をあらわすものになっていた。その後も、
「すきなやりかたとしては ちいさいいのちをいとおしむ ということ なんだけれどね…」
や、
「すきなやりかたとしては おもいでをたいせつにする ゆたかなじんせい ということ なんだけれどね…」
とぼくの行為としての“やり方”とは違う、姿勢や考え方としての“やり方”になる。もしかするとこれが大人と子どもの決定的な違いなのかもしれない。
そして“ぼく”のほうで書いたとおり、違いがあっても一緒に生きるのが家族だ。時にわたしは“ぼく”の前から姿を消す。
「すきなやりかたとしては べつにいなくなったわけでも かくれたわけでもないんだから、さわがないでほしい んだけれどもね…」
むちゃくちゃやっていた“ぼく”が、お母さんが見えなくなったとたんにとても不安そうになる。そして大声でわたしを呼ぶのだろう。とても愛しい一ページだ。
お互いに好きなやり方をしていても、一緒のソファーで眠ることが出来る。人と違うやり方で生きることは、実はそう難しいことでもないのかもしれない。温かい2冊。ぜひ同時に。
「けれどね…。」