125冊目『はせがわくんきらいや』

 

はせがわくんきらいや

はせがわくんきらいや

 

「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんと、いたら、おもしろくないです。」

 

森永ヒ素ミルク事件の被害者である長谷川くんのことから、さまざまな理由でなりうる“弱者”が集団においてどう扱われるかのおはなし。長谷川くんは長谷川くんだけど誰かのことでもある。

 

当時二十歳の筆者が自身の経験も踏まえて書いた、「弱い自分を呪う」ような本。しかし、弱さや怨嗟ばかりではない。希望も見える作品だと思う。

 

「この前なんか、ひどかったんや。」

という特徴的な書き出しからお話は始まる。どうしても一緒に山に行きたいという長谷川くん。しかし長谷川くんは上り始めて10分も経たないうちにもう動けなくなってしまった。元気な子たちは長谷川くんのことをおんぶしてなんとか登るが、雨も降ってきて大変。

 

長谷川くんがきらいだ。弱くて鼻たらしで、目がどこ向いているか分からない、長谷川くんがきらいだ。“普通”で“当たり前”の、ぼくには出来ることが、長谷川くんにはできない。

「先生が『長谷川くん、からだよわいから大事にしてあげてね』ゆうた。ぼくは、とんぼをとってあげた。」

 「『あの子、けんかしても泣かされてばっかりやから、ピアノで勝つんやゆうて習いよんよ。』とおばちゃんがゆうた。

 おばちゃんのゆうことよう、わからへんわ。」

子どもに“違い”を教えることは困難だし、それがまして病気や何かの被害によってもたらされたものならなおさらだ。自分がどういう人間かも分からないのに、他人がどういう生き物かどうかが分かるわけがない。

「おばちゃんのゆうこと、わからへん。」

「そうやろうね。そやけど、あの子と仲ようしてやってね。」

 

森永ヒ素ミルクによって、赤ん坊の頃から“弱さ”を植えつけられた長谷川くん。弱さはそのまま違いになり、違うことで集団とのかかわりに支障をきたす。そんな長谷川くんのことを嫌い嫌いといいながら、面倒をみてあげる男の子の表情がすばらしい。どんな集団にも必ず一人はいる“弱い子”が、どう人と関わっていくか。実際の事件がモチーフではありつつも、広く意味のある本だと思う。

「長谷川くんもっとはように走ってみいな。長谷川くん泣かんときいな。

 長谷川くんわろうてみいな。長谷川くんもっと太りいな。

 長谷川くん、ごはん、ぎょうさん食べようか。

 長谷川くん、だいじょうぶか。長谷川くん。」

 

版画のような黒の線とそのものずばり影の表現もいい。楽しいご本ではないけれど、読んでよかった。

 

「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい。」