128冊目『あのときすきになったよ』
「こころの中で いうのは だれにも きこえないからね。」
“私”の子どもの頃にとって大事な友だち、しっこさんのおはなし。
強烈な児童画の印象とミスマッチなタイトルが気になって読んだ。思えばどこかしら自分の小学生時代にも似た思い出があった気がする。
開いてすぐの“本の紹介”ページに、作中には一度も書かれていない、こんな言葉が書かれている。
「あの子と あったのは どこだっけ? けんかしたのは いつだっけ?
なんで なかよくなったんだっけ?
ちっとも すきじゃなかったのに、すきになったのは、なんでかなあ……。」
本作はこれを言葉にせずとも、子どもの目線だけで全てを語る秀作だ。始め、“私”ことかさまつゆいこは、“しっこさん”こときくちまりかを心底嫌悪している。しっこさんはどんな女の子かというと、
「しっこさんは すこししか しゃべらない。いつも おこったような かおを してる。」
という表現そのままの子で、更には“しっこさん”と呼ばれるようになった原因として、すぐにおしっこを漏らす、というのがある。おしっこを漏らす女の子、だからしっこさん。残酷にもみえるが、子どものころのあだ名やキャラクターってそういうもので決まるもので、そしてそれはなかなか払拭できるものではないように思う。この特徴の女の子、そういえば自分の小学校にもいた気がする。他人を寄せ付けない、というか誰もよりたがらない女の子。そんなしっこさんと喧嘩をした“私”は怒りに打ち震える。
「わるくちが からだじゅうで あばれまわった。」
しっこさんとなかなか仲良く出来なかった“私”だが、ある日同級生の男の子が金魚を死なし終わりの会で問題になったところ、しっこさんがぼそっといった、
「ごめんで すめば けいさつは いらないよ」
との一言から急速に仲は深まる。二人で金魚の墓をつくりながら、同級生の悪口を言い合う。一緒に帰れずにしょげていると、川を隔てた遠くからしっこさんが“私”のほうに手を振っている。
「おーい」「おーい」
「あしたねー」「うん、あしたねー」
「ばいばーい」「ばいばーい」
個人的にタイトルにもなっている“瞬間”の話なら、ここだと思っている。その後私は家にいて風呂に入り、日常を過ごしていても、しっこさんのことを考えるようになる。
「うちに かえっても、しっこさんの こえが きこえた。
おふろに はいっても、しっこさんの こえが きこえた。」
そんな“私”に更に優しくしてくれるしっこさん。どんどん“私”のなかでしっこさんの存在は大きくなる。それは紛れもない“好き”のそれで、 友達を好きになれる“私”が生まれた瞬間である。
病み上がりだった“私”は授業中におしっこを漏らしてしまう。そのときにいの一番に助けてくれたのもしっこさんだった。
「しっこさんは せんせいが おこっていても だまっていた。」
“私”は心の中で何度も謝る。
「きくちさん、ごめんね。まりかちゃん、ごめんね。
しっこさんなんて もう いわない。」
遂に友達の名前に辿り着いた“私”はきっともう大丈夫だろう。永遠ではないかもしれないがその感情は嘘ではないし、もう二度と訪れることのない「あのとき」だ。
ちびまる子ちゃんのような幼少時代の友達話がぐっときた。コミカルな絵もみていて飽きない。あのとき。
「まりかちゃん、ごめんね」「うん」