116冊目『わたしのとくべつな場所』

 

わたしのとくべつな場所

わたしのとくべつな場所

 

「もう子どもじゃないわ。ほら見て、こんなに大きな一歩!」

 

1950年代、人種差別のあったアメリカ南部で、とても大切な場所へ向かう女の子のおはなし。それはそれは特別な場所。

 

実話ベースの物語だけにとても辛い読み物だけれど、絵本にとって大事な“伝える”という意味を持つ一冊。

「わたし一人で行けるわ。“あの場所”へいっても構わないでしょ?」

主人公の女の子、パトリシアには、世界中でどこよりも好きな場所があった。けれどそこに一人でいったことはまだない。どころか一人で街を歩いたりした経験も少ないようだ。そんなパトリシアを心配するおばあちゃんには幼い子どもを心配する気持ちともう一つ、当時のアメリカにあった“差別”がパトリシアを傷つけやしないか、そんな心配があった。

「どんなことがあっても、胸をはって歩くんだよ」

 

バスに乗り都会に出かけるパトリシア。バスには当然のように「黒人指定席」があって、どんなに混雑していても黒人はその席にしか座ってはいけない。

はじめてバスに乗ったとき、おばあちゃんはパトリシアにこう説明した。

「あの表示は、わたしたちがどの座席にすわるかを命令することはできても、何を考えるかを命令することはできないんだよ」

差別に心まで屈すると惨めになるだけ。おばあちゃんはパトリシアに、胸をはって歩くことを教えた。パトリシアは、

「“あの場所”のことを考えることにするわ」

と、支えになっている場所のことを思う。

 

強烈な悪意、もしくは悪も何もないただの“慣習”が人を傷つけるとき、受けた人は心を強く保つことでしか自分を救えない。反骨して逆らって、ただ疲弊して何も残らない。そんな思いをするのならば、己のなかの強さと向き合うしかない。悲観的かもしれないが、みなが世界を革命できるほどの志を持っているわけではないから。パトリシアは、

「こんなの不公平だわ」

といいつつも、

「そうだね、でもそれが世の中というものだよ」

となだめられる。

 

その後も街には白人専用のベンチがあったり、黒人は入れないレストランがあったり、当たり前にある“不公平”が点在していた。そのたびに、

「パトリシアは胸をはって歩きました。気持ちを集中して、“あの場所”のことだけを考えることにしました。」

と強くあろうとするパトリシア。しかしそんな彼女も遂には傷つき、

「“あの場所”にいくことなんて、どうでもいいわ。お家に帰りたい」

と涙を流してしまう。耳をすますと、そこにいないはずのおばあちゃんの声が聞こえる気がした。

「おまえはりっぱな子だよ。世の中のどんな子にも見劣りなんてしない。“あの場所”にいくのはたいへんだろう。でも、やめるなんて考えちゃいけない。きっと、うまくいくよ」

 

とうとうパトリシアは“あの場所”の前まで辿り着いた。

「ここは、みんなの“希望”のつまった場所でした。おばあちゃんはここを『自由への入り口』と呼んでいました。

 この建物を見ていると、おこったり、きずついたり、はずかしいと思う気持ちが消えていきました。」

何か途方もない、暴力のような力に気おされそうになるとき、人の気持ちは場所に宿る。辿り着きたい場所、迎えたい時間、そして自由。本作の場合その場所は、一番自由で一番神聖で、誰かにとっての“特別”たりえる場所だ。

“特別な人”になるには、世界から認められなければいけないのかもしれない。でも“誰かの特別な人”になるのは簡単だ。その人の一番になればいい。“場所”なら、そこが拠り所になればいいのだ。“特別”とはそんな自由なものであると思う。

パトリシアにとって、50年代南部の黒人にとって、その場所は特別な場所だった。革命は起きなくても、心を自由にできる場所だったから。

「わくわくしながら、パトリシアは階段をかけのぼろうとして、立ち止まりました。正面入り口にある大理石にきざまれた言葉が目にとまったからです。」

 

この“場所” がいまの日本でも一番自由な場所であることを願う。誰もが自由な選択をして、誰にも差別されることなく、その権利を侵されない。ここはそんな“場所”だ。

 

公共図書館:だれでも自由に入ることができます」