105冊目『化鳥』

 

絵本 化鳥

絵本 化鳥

 

「いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、みんなおなじけだものだって。」

 

全ての人が獣にみえる男の子が、ある日川に落ちたのを、羽の生えた美しい生き物に助けられるおはなし。 

 

今回本当におすすめなので(今までがどうという話ではない)、自分のメモ書きに付き合ってくれている人はもう全員に読んでいただきたい。

泉鏡花文学賞の制定40周年を記念してつくられた本作は、絵本を読む喜びと面白さにあふれている。それは原文の化鳥ももとより、そこから抜き出して万人に伝わるようにと編纂したたくさんの人の力によるものだ。

鏡花の物語を「他の追随を許さない、独自の物語境を築いた稀有な作家でありながら、その文体の特異性ゆえか、多くの現代人にとって遠い存在になりつつある」と、泉鏡花記念館の学芸員はあとがきにて語る。しかしそのあとがきでこうもいっている。

「<鏡花世界>の主人公の多くは、大切な人の気配に支えられて生きています。そういった気配がいかに尊く、得難いものであるか、この絵本からこどもたちに伝われば幸いです。そして、いつか大人になった彼らが、古い本棚やひきだしからふたたびこの本を手に取り、その人なりの受け止め方で『化鳥』を記憶してもらえたら、これに勝る悦びはありません。」

これは、自分がまだ少しではあるものの、絵本を読んで「面白いなあ」と感じてきた部分に他ならない。絵本の持つ意味。それが“わかる”瞬間のすばらしさが、この一冊には詰まっている。

 

「おもしろいな、おもしろいな」

という一文から始まる本作。橋の上を渡る人々を、男の子は色んな獣としてみている。いのししが橋を渡る光景をみて、面白いよ、と“おっかさん”に報告する。この親子は橋守として生活しているのだ。

そんな男の子だから、学校の先生のいう「人が全ての生き物のなかでいちばんえらい」ということが分からない。

「すずめだってチッチッチッチッって、母様と、父様と、こどもとともだちとみんなで、おはなしをしてるじゃありませんか。」

「だって、先生、先生より菊の花のほうがうつくしゅうございます。」

 

男の子は橋の上でずる賢い猿に出会う。こいつは獣であるがゆえに、人から食べ物をわけ与えられ飢えることなくくらしている。昔、母様がその猿の飼い主であるじいさんに会ったとき、じいさんはこんなことをいっていた。

「ああ、奥様、わたくしは獣になりとうございます。みんなちくしょうで、この猿めがなかまでござりましょう。それで、手前たちの同類にものをくわせながら、人間一匹のわたくしには目をかけぬのでござります。」

猿は今も飢えずに生きている。そのページには猿の面と、翁の面が相反するように描かれていた。

 

そうやって生活をしていたある日、男の子は川に落ちてしまう。川で生活をして、川を面白がるのであれば、落ちることも突然ではない。このまま死んでいくのかと落ちていく男の子を、美しい羽の生えた、鳥のようなものが助けてくれた、らしい。男の子には光しかみえなかったから、それは母様が伝えてくれたことだった。

「それはね、おおきな五色の羽があって、天上に住んでいるうつくしいねえさんだよ」

その日から男の子は毎日鳥屋にいき、五色の羽を持つねえさんを探す。

「わらうものやら、あざけるものやら、きかないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、みんな獣だ。」

男の子は不可思議なものを捜すうちに、だんだん夜に紛れ込むようになってしまう。ふくろうが鳴き、蛙の声が高くなり、男の子は、妖に身をゆだねるようになる。

「わたしはなにをはなすのだろう。わたしになにをはなすのだろう。」

「だってわたしが鳥のようにみえたんですもの。」

 

男の子はすんでのところで、また「羽のはえたうつくしい人」に助けられ、そのときそのうつくしい人の正体に気づく。

「だけれども、まあ、いい。」

最後、橋は現代の光景へと変わり、物語は“今”へと繋がっていく。

 

絵も文章の抽出の仕方も、絵本というものを見つめなおし楽しんだ結果生まれた作品。おそろしいものはおそろしく、間抜けなものは間抜けに描く。

そして“母様”の存在。今年観た映画だと『mommy』、邦画だと『麦子さんと』のことを思い出した。そばにいなくても、時が移り変わっても変わらぬ存在である母。それはこの本で描かれるような、うつくしい羽のようなものなのかもしれない。

 

「母様がいらっしゃるから。母様がいらっしゃったから。」