98冊目『失われた猫』
「自然というのは、ありのままという意味だ。だが、ありのままが美しいわけではない。猫はそれを知っている。だからこそ、美を求めている。」
前作『猫の建築家』の続編。建築家の猫と革命家の猫の交差のおはなし。
白い猫と斑の猫の対比。
「白い猫は建築家だった。生まれる前から建築家だった。生まれるたびに建築家になる。この猫はいつも美について考えていたから自然に白くなった。」
「斑の猫は革命家だった。生まれる前は分からない。生まれたあとに革命家になる。この猫はいつも未来について考えていたから自然に斑になった。」
白い猫がいて、疑問を持ち美を探していたところを、後に斑の猫が訪れる。そこには何も残っていない。ただ、“問い”だけが残っている。 そんな交差が繰り広げられる。
「失われた猫を知っているか? 知っている。でも、見たことはない。
伝説の猫を知っているか? 知っている。でも、会ったことはない。」
そうして革命の夜がきた。この革命とは、自分の“予感”と“運命”の一致だ。白い猫が通ったところを斑の猫が駆けるように、未来は予感された何かを照らし合わせることによって生まれる。
「建築家は、問いかける。『君たち、毎日寝てばかりでいいのか?』
自然に対して、なにも抵抗せず、なにも築かず、ただ、眺めるだけ、ただ呟くだけ。それで本当にいいのか?」
「その問いだけが、夕暮れに残っていた。」
白い猫は相も変わらず動かなくなってしまった街を探索し、そこかしこに“問い”を残す。まるで、そのことが彼を“建築家”たらしめているように。そしてそこを“革命家”である斑の猫が訪れ、予感に胸を震わす。
「誰も知ろうとしないのは、誰も予感してないからか。
失われた猫がいなければ、すべてが、失われたままなのだ。」
「ここにも、問いがあった。失われた猫の問いだ。
革命家は振り返って、『追憶』と『余震』をじっと眺めた。」
失われた猫に写されているものは、我々がいうところの“歴史”なのかもしれないと思う。歴史は知らなければ存在していないのと同じだ。そこに失われた猫はいる。
「時は静かに、誰のためでもなく、ただ流れる。
そこにあったものが消え、そこになかったものが生まれる。」
「しかし、革命家は知っている。ここに、たしかにあった。」
なにもかもが変わらないようで、なにもかもが変わっているじゃないか。という気づきをえた猫は、そこで静かに眠りについた。まるで自分を自然に落とし込むように。
前作から余りぶれることなく、しかしこちらのほうが圧倒的に読みやすく面白かった。“ライド型”の前作とするならば、失われた猫は対比の物語だ。最後に白い猫はこう残す。
「問いなさい。いつも、問いなさい。いつまでも、問い続けなさい。
お前は、問うために、生まれてきた。そうじゃないか?」
偶然、今年読んだ漫画の中でもっとも胸に残っている『淡島百景』の言葉が思い出された。
「そうしたら1年が過ぎたの。2年目の今も考えていて、その人のことを考え続けるうちはここにいるのだと思ったわ。」
問う。考える。思う。当たり前の行動だけれども、それをし続けることは当たり前ではない。美しさも、歴史も、今は失われたものだとしても、問いつづけなければならない。そうすることで猫はようやく自然になる。あるがままの街のように。
「失われた伝説の猫は、答えなかった。
けれども、猫はそれを知っている。」