134冊目『小さな魔女のカプチーヌ』
「カプチーヌはすでに、家をジンジャーブレッドに変える魔術がつかえますし、動物と話すこともできます。」
『カプチーヌ』の続編。成長して魔女見習いになったカプチーヌが失敗を取り返すおはなし。人魚のシーンはちょっと照れる。
前作が面白かったので読んだ。今作もかわいらしい絵とお話。そしていわゆるファンタジー語がいたるところにある楽しい読み物だった。
「きょうは、カプチーヌの発明したあたらしい魔術を、メガンにひろうする日です。じゅうぶんに練習する時間のなかったカプチーヌは、ちょっときんちょうしています。」
カプチーヌは先生であるメガンに色々教えてもらいながら勉強しているけれど、まだ見習いのカプチーヌの魔術は失敗してばかり。この魔術も失敗して、大きな大きな樹を作り部屋を破壊してしまう。なおかつその樹に生えていた果実をうっかり食べたお料理番のニコラを小さな竜に変えてしまった。
「『ばかなことしちゃったよ』ニコラはすすり泣きました。」
メガンから全て明日の朝までに元通りにするようにといわれたカプチーヌは、竜になったニコラ、野ねずみのヴィクトール、ちびうさぎのハリーと一緒に冒険にでる。
ちなみにこの二匹、前作でもカプチーヌと一緒に旅をしたふたり。その後いろいろあって友達になったよう。そんなところもなんだか子ども心をくすぐられる。
始めの目的地である長生きの樹、ロビュール先生の言葉。
「たいしたことじゃないさ、おちびさん。だれにでも失敗はある。たいせつなのは、きちんとあとしまつをつけることと、おなじ失敗をくりかえさないように学ぶことだ。」
次に一行は動物園に向かう。そこに住む人魚から涙をもらい、薬にするためだ。胴部円になぜ人魚がいるのといわれるとそういう世界観だからなのだけれど、この動物園には他にも一角獣や雪男、不死鳥なんかがいるらしい。
「ネス湖のきょうりゅうたちは、人魚たちとおよぎまわっている、というぐあいです。」
「いくらりゅうににているからといって、少年をおりに入れてしまう動物園なんてないのは幸運なことでした。」
この世界の動物と非動物の分け方が気になる。あとネス湖の恐竜、つまりネッシーが出てくるがなぜかメガネをかけているのも気になる。長老ということかしら。
人魚の涙はニコラが曲芸をして、笑い過ぎで泣かせるという方法で採取成功。
「そのきちょうななみだはすべて、カプチーヌがいそいであつめましたとも。」
ついに薬をつくりあげ研究室に帰り着いたカプチーヌ。樹は元の大きさになり、ニコラはもとの男の子に戻った。掃除をして、とここである人物が登場。
「カプチーヌのお父さんがわれた窓ガラスをとりかえてくれるのを待つだけです。」
カプチーヌのお父さんといえば前作で魔女の数珠を盗み、そのことを恐れて魔女に近づこうとしなかった男。最後まで魔女はこのお父さんを許していなかったはずだが、もしかしてお父さんは魔女メガンの奴隷として働かされているのでは。カプチーヌの魔女が自由意志の元だとはいえお父さんは絶対しぶしぶ送り出したはず。いやもう家族ぐるみで魔女の支配下なのかも。恐ろしさ。
相変わらず楽しいお話と読みやすい文章で超高水準の絵本。今回捧げている「ニコラ」という子は著者夫婦にとってどういう立ち位置の子なのかな。
「いつの日か、カプチーヌはりっぱな魔女になることでしょう。」
133冊目『ぼくと弟はあるきつづける』
「あの ながい旅から、一年が たちました。」
戦争で親と離れ離れになった兄弟が、旅の末難民の街に辿り着くおはなし。猫の顔だけどうしても笑ってしまう。
戦争を題材にした絵本は多いがそのなかでも子どもの視点がよく表現されていていい本。ちなみに今作はシリーズものでこれは三作目。親と離れて旅を続けていた兄弟がようやく親と再会するのがラスト。
前作でおじいちゃんの家に辿り着き安息の一年を過ごすも、すぐにおじいちゃんは亡くなってしまい途方に暮れる。
「おじいちゃんが なくなりました。これから どうしたらいいですか?いつ むかえにきてくれますか?でも、ぼくたちは げんきでいます。しんぱいしないでください」
そんななか、おじいちゃんの残した遺産を商品に換え、商売を始めようとする兄弟。最初は上手く出来なかったけれど、だんだん軌道にのりはじめた頃、お父さんから手紙が届く。
「もうすぐ このたたかいも おわる。停戦になったら、さいしょの船で おまえたちを むかえにいく。それまで エルタンを たのむよ。」
ある日いつものように商売をやっていると、男の子と女の子の難民に遭遇する。彼らは彼らだけで、この戦争のなか、村を作っていた。
「ようこそ!ジャバル・アルスンへ」
「ことばの山、っていうなまえの 村よ。いろんなことばをはなす人が すんでいるの。みんな、あちこちの国や地方から きているのよ。」
兄弟はそこで一緒に暮らすことにした。ここには戦争も貧困もなかった。あるのは違いと生活だけ。
「ぼくたちのそだてた作物が たくさん みのりました。」
春になり兄弟はすっかり村の住人に。ながいあいだ会っていない親の顔を思い出せなくなるくらいのときが流れた。
「ねえ、おにいちゃん。あの花、母さんのにおいがするよ」
これ以上忘れないように二人で父さんと母さんの似顔絵を描いた。ここがこのお話でもっとも美しく、もっとも悲しいシーン。花はピンクで春はハッピーだけどだからこそ会えないことは辛い。
「たぶん、お父さんもお母さんも、ぼくたちのこと わからないぐらい、大きくなったよ」
兄弟に再会のときが訪れて本当に良かった。会えないまま、苦しいまま終わる戦争なんて何も珍しくない。それでも兄弟は歩き続ける。最後は子どもに優しい本でよかった。
「この旅にでて はじめて、ぼくの目から、なみだが こぼれました。」
132冊目『ハコちゃんのはこ』
「ハコちゃんはねこです。どうしてハコちゃんかというと、はこがすきだからです。」
箱に入りたがる猫、ハコちゃんと一緒に暮らす家族のおはなし。
表紙に見つめられている気がして読んだ。猫がかわいいなんてのは当たり前の話だけれど、その可愛さを表現するのにいくつもの工夫がなされている。一つは箱の種類。どんな箱でも入るハコちゃんは、娘の誕生日、家族でお祝いするために買った誕生日ケーキの空箱にもはいる。箱についた生クリームをちょっと舐めながら、こっちを悪戯そうに向く。
「どんな はこでも はいります。」
家庭に存在する箱はだいたいが、何かの使用後であることが多い。ティッシュボックスはハコちゃん自らが掘り、入ろうとするがさすがに小さすぎて断念。
「まるい はこに はいると まるくなる。」
「しかくい はこに はいると しかくくなる。」
丸い箱はお母さんが帽子を入れるための箱。四角い箱は子どもが金魚を入れようといていた水槽。まあ迷惑な猫だけれど、入りたいのだから仕方がない。家族が暮らすなかに箱があってハコちゃんがいる。ハコちゃんだってもちろん家族だから、そこはハコちゃんの居場所なのかもしれない。
「はいると しかられる はこも あります。」
植えたばかりの植木鉢に入ることは許されていないハコちゃん。それは新芽の居場所だから。
この本で一つ引っかかるところは家族を表現するアイテム。空き箱で何度か酒の空き箱が登場して、それはどうやらお父さんを表すものらしいのだけれど、他にも何かなかったろうか。写真に写るお父さんは至極真面目そうな分、この家族に隠された暗い部分、なんてことを想像してしまった。話は大きくなりハコちゃんにとっての箱を考える。
「ハコちゃんから みると、へやも おおきな はこかもしれません。」
宇宙船地球号みたいな発想だが、ハコちゃんにとっての居場所=箱であるなら、この家がそうであると嬉しい。
「かぜが ふいても、あめが ふっても、ゆきが ふっても、この はこに いれば あんしんです。」
「おおきな はこの なかの ちゅうくらいの はこの なかの ちいさい はこの なか。あったかくて きもちよくて ごーろ ごーろ ごーろ。」
ハコちゃんの可愛さから、生き物にとっての居場所まで思う奥の深い本。箱だけに。はい。絵もあたたかみのある感じで可愛いのでよかった。
「ハコちゃん、ごはんだよ。」
131冊目『白バラはどこに』
- 作者: クリストフガラーツ,ロベルトイーノセンティ,Christophe Gallaz,Robert Innocenti,長田弘
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2000/09
- メディア: 単行本
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「冬がはじまろうとしていました。」
戦時下、ドイツに住む少女「白バラ」がみた戦争と収容所のおはなし。赤いリボンの女の子。
詩人、長田弘が贈る絵本シリーズ。第二次世界大戦下のドイツから、無垢な少女の命さえ奪う戦争という名の殺戮を描く。絵本として、あまりに痛烈。しかしこの本の前文にはこう書かれている。
「甘さのみじんもない、しかし、リリカルな本当の“絵本”がここにある。」
「この絵本を読んだら、あなたの心の中に。」
絵本というのが本として一番シンプルでなければいけないのなら、酷な現実もまた読む人を貫くべきだ。衝撃は大きければ大きいほど価値がある。
「川の流れを見つめながら、川のほとりを散歩して、わたしはながい時間を過ごします。木の枝枝が、川を流れていきます。ときには、古いこわれたおもちゃも。わたしは川の色が好きです。川の色は空の色に似ています。」
白バラの名を持つ赤いリボンをつけた少女は、自分の街にこんなことを発見できる、感受性の豊かな女の子。しかしそんな白バラの街にも、冬の訪れとともに戦争が近づく。戦争は時に戦車、時に兵隊、時にたくさんの人を積んだトラックの形で現れる。そのトラックがどうしても気になる白バラは、陰に隠れてこっそりと眺める。
「トラックがどこへむかっているのか、わたしたちは知りませんでした。川の向こう側のどこかへゆくところなのだ、と思っていました。」
しかしトラックは街はずれの空き地に辿り着く。そこは電流の流れる鉄条網で囲まれた、いわゆるユダヤ人収容所だった。収容所のなかではたくさんの子どもたちがおなかを空かせて立ち尽くしている。白バラは持っていたパンを注意ぶかく、子どもたちに手渡した。
「丘の後ろへ、太陽が沈んでいくところでした。風の強い日でした。わたしは寒かったのです。」
白バラが寒さを感じるほどであれば、さらに薄着で、飢餓状態にある子どもたちはどれほど寒かったろう。少女のなかで何かが変わった瞬間だった。
その日から白バラは毎日収容所に通った。戦争は続き、街の人たちもどんどんやせていく。そしてある朝、すべての人たちが街から逃げ出した。ドイツは敗戦国になった。
「足をひきずっている兵士たち。痛みにおそわれ、水をくれとうったえる兵士たち。」
収容所は壊され、そこにいた人たちは殺されたのか、跡形もなく消えたのか。その死が分からない白バラは何も思うことができない。そうして白バラにも銃はつきつけられる。新しく現れた兵士たちにとって、その国にいる人はみな敵だから。
白バラという名の少女の顔は、読んでいる私たち読者の顔によく似ている。何も知らなかった現実に背後から撃たれるような、そんな感覚をこの本に覚える。
辛く苦しい一冊だけれど、語り口や絵に温かみを感じる瞬間もある。最後は春の訪れで終わるのもいい。今、冬がきている国にもいつか春がきて、ずっと春だったらいいのにね。うーん。少女に幸あれと祈るしか出来ない。せめて読み続けよう。
「春がうたっていました。」
130冊目『さよならはくちょう』
「つきのきれいなよる、みずうみのほうからはくちょうの
コオ コオというこえがたくさんきこえました。」
諏訪湖で越冬する白鳥を見送るおはなし。色んな絵本の形がある。
「ちいさなかがくのとも」という雑誌形式の絵本から、 2009年のものを読んだ。雑誌の形なので本はぺらぺらだが、値段は他の絵本よりもずいぶん安い。対象も狭く3~5歳ごろまで。知育目的でも使えるので学校や図書館におろす用らしい。
しかし値段や形式が変わっても、そこに“感動”という信念があるから強い。今作は越冬してまた外国に飛んでいく白鳥を見送る女の子の目線を通して自然への感動をいざなう。
「このみずうみに いる はくちょうは、こはくちょうという はくちょうだと おしえてくれた おじさんです。」
おじさんは白鳥に餌を与えて、更に女の子に白鳥の色んな生態を教えてくれる。白鳥は冬の間、長野県諏訪湖で過ごし、春になると力を蓄え、遠い海へと旅立つ。春になったらさよならだ。
「ひとりで だいじょうぶなのかな。わたしは しんぱいになりました。」
白鳥のイラストはごく単純に、しかし正確に描かれている。以前読んだ白鳥の湖と違い、こちらはずいぶん生き物としての雰囲気があった。実際、あとがきには「写真を参考にしました」と書かれていて、このあたりも物語としての白鳥ではなく、“科学”の白鳥として捉えられている。だからこそ、最後のお別れは感動的だ。
「いよいよ きたに かえるんだ」
「はくちょうは みんなで ないて ざわざわしていました。」
隊列を組み大空を翔る白鳥は、今年の冬はこれでさよならだけれど、来年また帰ってくる。帰ってくるためのさよなら。夕空を飛ぶ白鳥の群れは何よりも美しく、雄大な自然だ。
生き物としての魅力に詰まった本だったので、帰るなら購入してうちに置いておきたい。というかこのシリーズがずいぶんいい。定期購読したい。小学校に戻るしか道はないのか。戻ります。帰ってくるためのさよなら。冬がきます。
「さよなら さよなら はくちょうたち。げんきでね。」
129冊目『はくちょうのみずうみ』
「ひとりごとをいったとき、むこうのみずうみにはくちょうがまいおりました。」
呪いの力で白鳥の姿にされてしまったお姫様を救うおはなし。そういえば元曲を聴いたことがない。
チャイコフスキーのオペラ、白鳥の湖をいわさきちひろさんの絵で描いた本。いわさきさんはやはり人物の印象が強い。淡い色合いなのに表情はしっかりとしていて、絵から意思が伝わってくる。反面、白鳥の美しさは背景にとどまっているので、“自然”“人”という書き分けなのか。その背景もまるで人の形を縁取るようにあってこれまた素晴らしい。
「あるくにのおうじょでしたが、わるいまほうにかけられて、はくちょうにされました。わたしたちは、よるがくるとむすめのすがたにもどれますが、ひるまははくちょうになって、とんでいなければなりません。」
白くて美しい白鳥は、白くて美しいお姫様になって王子の前に現れた。その美しさに見惚れた王子はすぐに結婚を決意。しかも呪いを解く方法が王子と結婚すること、というなんだかよく分からないけれどとんとん拍子にことは進む。
結婚相手を見つけるために催された舞踏会に王子は参加し、そこで白鳥の娘をみつけてもう一度求婚するという。そして迎えた舞踏会。王子は現れた白鳥の娘そっくりの黒くてまがまがしい悪魔に騙され、その娘に求婚してしまう。
「ジークフリートがみたのは、なきながらとんでいくはくちょうでした。」
「わたしは、わかいむすめにもどって、あなたとしあわせになりたいとおもいました。
でも、もうおしまいです。」
物語はその後ハッピーエンドを迎えるのだけれど、この本の魅力はとにかくちひろさんの絵にある。お気に入りは悪魔が正体を現す舞踏会のページ。黒く美しい悪魔と王子、そのあいだを白鳥が、ページの余白の部分は全て白鳥の体だといわんばかりに伸びている。人の顔も美しいが、そのデザインセンス、見易さと、あまり詳しくない自分が見ても惚れ惚れする。
魔法のような一冊。ちひろ美術館、一度はいっておきたい。
「ふたりのあいが、わるいまほうをうちやぶったのでした。」
128冊目『あのときすきになったよ』
「こころの中で いうのは だれにも きこえないからね。」
“私”の子どもの頃にとって大事な友だち、しっこさんのおはなし。
強烈な児童画の印象とミスマッチなタイトルが気になって読んだ。思えばどこかしら自分の小学生時代にも似た思い出があった気がする。
開いてすぐの“本の紹介”ページに、作中には一度も書かれていない、こんな言葉が書かれている。
「あの子と あったのは どこだっけ? けんかしたのは いつだっけ?
なんで なかよくなったんだっけ?
ちっとも すきじゃなかったのに、すきになったのは、なんでかなあ……。」
本作はこれを言葉にせずとも、子どもの目線だけで全てを語る秀作だ。始め、“私”ことかさまつゆいこは、“しっこさん”こときくちまりかを心底嫌悪している。しっこさんはどんな女の子かというと、
「しっこさんは すこししか しゃべらない。いつも おこったような かおを してる。」
という表現そのままの子で、更には“しっこさん”と呼ばれるようになった原因として、すぐにおしっこを漏らす、というのがある。おしっこを漏らす女の子、だからしっこさん。残酷にもみえるが、子どものころのあだ名やキャラクターってそういうもので決まるもので、そしてそれはなかなか払拭できるものではないように思う。この特徴の女の子、そういえば自分の小学校にもいた気がする。他人を寄せ付けない、というか誰もよりたがらない女の子。そんなしっこさんと喧嘩をした“私”は怒りに打ち震える。
「わるくちが からだじゅうで あばれまわった。」
しっこさんとなかなか仲良く出来なかった“私”だが、ある日同級生の男の子が金魚を死なし終わりの会で問題になったところ、しっこさんがぼそっといった、
「ごめんで すめば けいさつは いらないよ」
との一言から急速に仲は深まる。二人で金魚の墓をつくりながら、同級生の悪口を言い合う。一緒に帰れずにしょげていると、川を隔てた遠くからしっこさんが“私”のほうに手を振っている。
「おーい」「おーい」
「あしたねー」「うん、あしたねー」
「ばいばーい」「ばいばーい」
個人的にタイトルにもなっている“瞬間”の話なら、ここだと思っている。その後私は家にいて風呂に入り、日常を過ごしていても、しっこさんのことを考えるようになる。
「うちに かえっても、しっこさんの こえが きこえた。
おふろに はいっても、しっこさんの こえが きこえた。」
そんな“私”に更に優しくしてくれるしっこさん。どんどん“私”のなかでしっこさんの存在は大きくなる。それは紛れもない“好き”のそれで、 友達を好きになれる“私”が生まれた瞬間である。
病み上がりだった“私”は授業中におしっこを漏らしてしまう。そのときにいの一番に助けてくれたのもしっこさんだった。
「しっこさんは せんせいが おこっていても だまっていた。」
“私”は心の中で何度も謝る。
「きくちさん、ごめんね。まりかちゃん、ごめんね。
しっこさんなんて もう いわない。」
遂に友達の名前に辿り着いた“私”はきっともう大丈夫だろう。永遠ではないかもしれないがその感情は嘘ではないし、もう二度と訪れることのない「あのとき」だ。
ちびまる子ちゃんのような幼少時代の友達話がぐっときた。コミカルな絵もみていて飽きない。あのとき。
「まりかちゃん、ごめんね」「うん」