127冊目『こわいわるいうさぎのおはなし』

 

こわいわるいうさぎのおはなし (ピーターラビットの絵本 6)

こわいわるいうさぎのおはなし (ピーターラビットの絵本 6)

 

「これは、こわい わるいうさぎです。この あらあらしいひげを ごらんなさい。」

 

怖くて悪いうさぎが天罰を食らうおはなし。いやー笑った。

 

この本が作られた理由からすでに面白い。

「このお話は、ポター(作者)の担当編集者の幼い娘の『ピーターラビットはいい子すぎるから、今度はほんとうに悪いうさぎの話が読みたい』という注文にこたえて作られました。」

英国淑女の意地か創作者としての引き出しの多さアピールなのか、この話は徹頭徹尾そういう思いつきで作られている。しかし思いつきの話もシニカルに、美しく描く。

こわいわるいうさぎはおとなしくていいうさぎからにんじんを奪い、更には座っていたベンチも奪う。なんてこわくてわるいうさぎだ。

「わるいうさぎは『ください』などといいません。いきなり、にんじんをよこどりします!」

「いいうさぎは、とてもがっかりしました。」

いいうさぎはすごすごとその場を去り、わるいうさぎはでんとそこに構えました。果たしてこのお話はどうなるのだろう。そう思い読んでいるとそこで衝撃の展開。

 

「これは、てっぽうをもった おとこのひとです。」

 

前置きも何も為しに鉄砲を持った男の人が登場。現代日本で考えてみると余りにおそろしい光景。

「てっぽうをもった おとこのひとは、なにかが ベンチに すわっているのを見つけました。ずいぶんおかしなとりだなあと、そのひとはおもいました。」

こわくてわるいうさぎはこわくてわるいが、ベンチに悠々と座る姿はとても可愛い。しかしその次のページでは、ずどん!

「それから、てっぽうをうちました。」

 

ここまでの展開がいわゆるピーターラビットの絵で描かれているのも相当いいのだけれど、鉄砲で撃たれたあとの、残酷すぎるイラストよ。さっきまでわるいうさぎが食べていたにんじんと、うさぎの耳としっぽが宙を舞う。

「すると、こんなことになりました。」

端的すぎる気もするけれど、誰もがそのイラストを見たときに「こんなことに!」と思うだろう。

「けれど、そのひとが、ベンチのそばにかけつけてみると、そこにあったのは、こんなものだけでした。」

「こんなものが残っているこんなことに!」と全く文章では説明していない雑さにしびれる。シンプルといいかえてもいい。だってまさに“こんなこと”なのだから。

「いいうさぎは、あなから そとをのぞきます。」

 

作者の「そういうならやってやろうじゃん」から出来たものが、作品性を一番現すものになっている典型的な例。うさぎは可愛いし人は悪いしなんならうさぎも悪い。読んでてとても楽しい気持ちになった。おすすめです。

 

「ひげも、しっぽもなくして、つるっとなった わるいうさぎが!」 

 

126冊目『フロプシーのこどもたち』

 

フロプシーのこどもたち (ピーターラビットの絵本 3)

フロプシーのこどもたち (ピーターラビットの絵本 3)

 

「わたしは れたすをたべて、ねむくなったことは ありません。もっとも、わたしは、うさぎではありませんけれどね。」

 

ピーターラビットにでてくるベンジャミンが、小さな六つ子の子どもたちに振り回されるおはなし。いわゆる“後日談”みたいなものか。

 

遂にピーターラビットシリーズを読んでみた。けども、やっぱりこの物語どこか変だ。英国流の茶目っ気というか、どこか突き放した笑いが全編を支配している。

 

語り部らしき人が初めにいうのが前述の文章。続いてこんなこともいう。

「わたしは、このこどもたちのなまえをいちいちおぼえていませんが、みんなはいつも この小うさぎたちを、『フロプシーのとこの こどもたち』といっていました。」

私はこの子達の名前を知りませんが…といちいちいわないと紹介もできないこの感じ、これが英国流だというならやっぱりちょっと感じ悪い。しかし、その皮肉屋っぽい文章が読んでいて面白いのも事実で、「ちょいちょい(ちょっとずつという意味)」なんていう現代語が訳に使われているのも面白い。

 

こどもたちはいつもおなかを空かせていて、人間の老夫婦であるマクレガーさんのところのごみ捨て場にいっては、捨てられているレタスを食べたりしている。その日もこどもたちはレタスを食べて、眠くなったのでごみ捨て場で寝ているところをマクレガーさんに捕まえられる。マクレガーさんはこれまたひどい人で、捕まえた子うさぎを袋につめて売りさばこうとしているのです。

「子うさぎたちは、ねどこでおかあさんに ねがえりをうたせてもらうゆめをみながら、ちょっと身うごきしましたが、目はさましませんでした。」

そこをとおりかかったのがピーターラビットの友人でもあるネズミのトマシナ・チュウチュウ。めちゃくちゃいい名前。

「トマシナ・チュウチュウは、なかなかうまいことを おもいつくねずみで、ふくろのすみをかじって あなをあけてくれました。」

 

その後マクレガー夫妻の夫婦喧嘩をなぜか見守る子どもたちとうさぎという、なんとまあ、一言でいえば性格が悪い展開になる。そのシニカルさがクセになって、これほどまでに読まれる絵本になっているのだなあ。イラストが可愛いのはもちろんのこと、英国的動物話もなかなか面白かった。他も読む。

 

「そこで、ベンジャミンとフロプシーは、もう そろそろ いえにかえったほうがいいとおもいました。」 

 

125冊目『はせがわくんきらいや』

 

はせがわくんきらいや

はせがわくんきらいや

 

「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんと、いたら、おもしろくないです。」

 

森永ヒ素ミルク事件の被害者である長谷川くんのことから、さまざまな理由でなりうる“弱者”が集団においてどう扱われるかのおはなし。長谷川くんは長谷川くんだけど誰かのことでもある。

 

当時二十歳の筆者が自身の経験も踏まえて書いた、「弱い自分を呪う」ような本。しかし、弱さや怨嗟ばかりではない。希望も見える作品だと思う。

 

「この前なんか、ひどかったんや。」

という特徴的な書き出しからお話は始まる。どうしても一緒に山に行きたいという長谷川くん。しかし長谷川くんは上り始めて10分も経たないうちにもう動けなくなってしまった。元気な子たちは長谷川くんのことをおんぶしてなんとか登るが、雨も降ってきて大変。

 

長谷川くんがきらいだ。弱くて鼻たらしで、目がどこ向いているか分からない、長谷川くんがきらいだ。“普通”で“当たり前”の、ぼくには出来ることが、長谷川くんにはできない。

「先生が『長谷川くん、からだよわいから大事にしてあげてね』ゆうた。ぼくは、とんぼをとってあげた。」

 「『あの子、けんかしても泣かされてばっかりやから、ピアノで勝つんやゆうて習いよんよ。』とおばちゃんがゆうた。

 おばちゃんのゆうことよう、わからへんわ。」

子どもに“違い”を教えることは困難だし、それがまして病気や何かの被害によってもたらされたものならなおさらだ。自分がどういう人間かも分からないのに、他人がどういう生き物かどうかが分かるわけがない。

「おばちゃんのゆうこと、わからへん。」

「そうやろうね。そやけど、あの子と仲ようしてやってね。」

 

森永ヒ素ミルクによって、赤ん坊の頃から“弱さ”を植えつけられた長谷川くん。弱さはそのまま違いになり、違うことで集団とのかかわりに支障をきたす。そんな長谷川くんのことを嫌い嫌いといいながら、面倒をみてあげる男の子の表情がすばらしい。どんな集団にも必ず一人はいる“弱い子”が、どう人と関わっていくか。実際の事件がモチーフではありつつも、広く意味のある本だと思う。

「長谷川くんもっとはように走ってみいな。長谷川くん泣かんときいな。

 長谷川くんわろうてみいな。長谷川くんもっと太りいな。

 長谷川くん、ごはん、ぎょうさん食べようか。

 長谷川くん、だいじょうぶか。長谷川くん。」

 

版画のような黒の線とそのものずばり影の表現もいい。楽しいご本ではないけれど、読んでよかった。

 

「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい。」

 

124冊目『カプチーヌ』

 

カプチーヌ (魔女のえほんシリーズ)

カプチーヌ (魔女のえほんシリーズ)

 

「でも、すべてはある寒い10月の夜にはじまります。」

 

魔女の呪いで小さくなってしまった女の子が動物とともに魔女にあいにいくおはなし。

 

表紙の何か大きなものに襲われている感じからどんな冒険譚なのかしらと気になって読んだ。冒険は短かったけれど、空を飛ぶ様は愉快だ。

 

絵の温かみある表現が細部まで施されていて、ずっとみていて飽きない。小さくなってしまった女の子カプチーヌの目線だから、出てくる小動物や小物などは全て大きく見える。特に中盤にでてくるコウノトリのグロリアの姿は圧巻。大空を駆けめぐる姿も、そのときのカプチーヌの感情表現もすばらしい。

「上空からながめると、世界はなんてきれいなんでしょう。

 家々を遠くに見下ろしながら、

 カプチーヌは自分が大きくなったみたいな気持ちを味わいました。」

 

お父さんの大きな過ちとは、ある日泊まりにきた魔女から、真珠を一つ奪ってしまったことだった。その真珠を口に含んでしまったカプチーヌは小さくなり、更には同サイズの動物たちと話せるようになった。

「すべての動物ーーなめくじとプードルだけはべつですがーーと、話せるということです。魔法というのは、ときに科学では説明のつかないことをするものです。」

なんでなめくじとプードルは駄目なのか。ということを考えていて、この絵本が誰に贈られたものなのかというところに思い当たった。作者はタンギー・グレバンとカンタン・グレバンという名前からしておそらく夫婦、そして一番最初の“誰に” のところにはこう書かれている。

「わたしたちの小さなラリーに」

おそらく、このお話は娘であるラリーのために描かれたもので、ラリーはなめくじとプードルは苦手(かもしくは大好き)なのではないだろうか。自分の娘が小さくなって冒険するおはなしを出版したのだとしたら相当親馬鹿だけど、面白くて素敵だからいいと思う。

 

カプチーヌは長い旅の末魔女の家に辿り着き、一度は捕らえられそうになるも仲間を守り魔女の説得に成功した。すべてを正直にはなすと魔女は、

「お父さんもいっしょにくるべきだったわね。でも、こんなに遠くまできたあなたはゆうかんでした。いいでしょう、真珠の呪いをといてあげます。」

とカプチーヌの体を元の大きさに戻した。これにてカプチーヌの旅は終わり。

「いそぎましょう、みんな。これから、ながい空の旅があるんだもの。」

大きくなってしまったカプチーヌを運ぶのはいくらコウノトリでも無理じゃないかなあ。そのほか、

「ただし、お父さんにここへきてあやまってもらうのを忘れないで。さもないと、お父さんを青いヒキガエルに変えてしまいますからね」

とお父さんへの恨みを忘れない魔女の執念深さもいい。この世界では基本的に魔女は親しみをもたれていて、絵もまるで同年代の娘のように描かれているものだから、そんな魔女から真珠を奪ったお父さんは土に顔をうずめて謝るに違いない。そんなお話もちょっと読んでみたい気もする。

 

自分の娘に宛てたお話、として解釈するとこんなに喜ばしい絵本もそうない。読んでてなんだかにやにやしてしまった。というかこのあとの続編があるのか。うわあ絶対に読もう。楽しみ。

 

「もしかすると、もしかするとですが、カプチーヌも、みんなに愛されそんけいされる魔女に、なるかもしれません。」

 

123冊目『おや?おや?おや?のえほん ねじ』

 

ねじ (ミセスこどもの絵本 おや?おや?おや?のえほん)

ねじ (ミセスこどもの絵本 おや?おや?おや?のえほん)

 

「なぞなぞなぞねじ……ねじねじ。」

 

ねじの写真を使ったなぞなぞのおはなし。なぞは意外と難しい。

 

たまにある写真絵本のなかでもこれはずいぶん異彩を放っている。なんと写真の対象がねじだ。しかも普通のねじではなく、何かの絵に見えるように配置や色を凝ってつくったねじ。小さいのも大きいのもあり、全て揃って大きな画になっている。

 

「だい いちもん かがみをつかっても ぜったいにみられない かお どんな かお?」 

なぞなぞには丁寧にヒントも書かれている。

この謎の答えは、「ねがお」。人の顔や布団の模様まで、全て実物のねじで描かれていてどれもが美しい。

「じぶんの ねむっている かおが きみは みられるかい?」

 

「だい さんもん 10この かいで できた こわいもの なあに?」

ヒントはたくさんのイチゴ。1が5こでイチゴ。答えは「かいじゅう」となる。この問題にはおまけもあり、

「8が3つなら はちみつだよ。」

と楽しい問いかけも。さすがにハチミツはネジで描けなかったのか、その図はなかった。

 

四問目の秋の月や五問目のたくさんの人も、そのどれもがねじでできている。皮肉でもなんでもなく、何かの“部分”であるところのねじが全てを構成している世界は、みていてとても楽しい。子どもが手に取ったら一日中きゃっきゃと読んでいられる本。

 

「たのしくって たのしくって だれも ないては いないけどね。」

 

122冊目『はっけよいごりまる』

 

はっけよいごりまる

はっけよいごりまる

 

「よこづなめざしてきたえるぞー」

 

子ゴリラごりまるが横綱を目指して日々特訓するおはなし。黄色の回しが可愛い。

 

絵も文章も軽く読める感じで楽しかった。お気に入りは『かたすかし』のお話。

塾かサッカーにいく途中っぽいサイくんを捕まえて、相撲の特訓にはげむごりまるくん。サイくんはだいぶ嫌そうにするも、しぶしぶ土俵に立つ。見合って見合って、はっけよーい……といったところで、サイくんが土俵から降り、通りすがりのお母さんのところへ走っていってしまう。サイくんのお母さんは持っていたドーナツをごりまるくんにもくれた。ごりまるくんはのこったのこったの代わりに、

「もらったもらった」

と笑顔でドーナツを受け取る。

「かえった」

そして残されたのはごりまるくん一人。

「のこった」

寂しそうにドーナツをほおばるごりまるくんがかわいそうでみてられない。基本的にごりまるくんは、相撲のこととなると突っ走ってしまう癖があるようで、他にも「よりきり」ではどうしても勝てないくまくんにしつこく強くなる秘訣をきいたり(その上苦手な食べ物を食べる、ということは絶対にしたくない)、「いさみあし」ではよかれと思ってした親切が仇となっている。

 

でもごりまるくんは、まだ横綱を夢見る子どもだ。失敗もするし、まだまだよわっちい。だから日々特訓をつむ。いつか横綱になれるよう。

最後の話である「ゆめはよこづな」では、お父さんにだけ相撲に負けたことを報告する。

「けいこすればつぎはかてるさ」

頑張れごりまるくん。よく寝てよく食べろ。ひねくれたことばかりいうな。

 

「ぼく、ゆめのなかでもけいこするよ!」

121冊目『にんじんケーキ』

 

にんじんケーキ (児童図書館・絵本の部屋)

にんじんケーキ (児童図書館・絵本の部屋)

 

「にひきのうさぎがけっこんしたとき、これほどにあいのふうふは、うさぎのくにじゅうさがしてもみつからないだろう、といわれたものでした。」

 

二匹の新婚うさぎが互いの会話の糸口を探すおはなし。喋りすぎてもいけないし、黙っていてもいけない。

 

結婚式にでてくる「キャベツのシチューやカブのパイ、ガラスのおおいをかぶせた、やわらかいレタス」がとてもおいしそうだったので読んだ。おいしいけれどおいしいだけではないお話。

「わかいふたりがたびだつとき、はなよめのおかあさんは、むすめをだいて、いいました。『だんなさんをあいし、そんけいする、やさしいおくさんにおなり』

 はなむこのおかあさんは、むすこをだいて、いいました。『おくさんをあいし、いたわっておあげ。かなしませてはいけないよ』」

 

縁あって結婚する二人であったとしても、所詮は他人。相手のことを知ろうと思わなければ何も知ることはできない。 二人は新婚生活を始めて会話を試みてみるも、なかなかどうして噛み合わない。

「『それじゃあ、きょう、ぼくがまちへいったときのことをはなそう』

 『あら、そう』おくさんはいいました。

 『ぼくは、まず、うちのドアをなおしてもらいに、だいくのところへいった』

 『あら、そう』

 『それから、このチョッキを買った』

 『あら、そう』

 『あら、そう、しかいえないのかい』」

 

奥さんは少し抜けているところがあって、だんなとの会話になんと返せばいいのかわからない。機械のような奥さんの口調に苛立っただんなは、これこれこう返せばいいんだよ、と全ての返答を教える。しかし奥さんは教えられたものを繰り返すことしかできなくなってしまう。

 

自分が、人に教えたり教えられたりという行為に嫌悪感を覚えるのが主にこの感覚だ。教える側に正義があれば、一方的に正しさを主張できる。それが是か非かは置いておいて、この夫婦のなかでそれはよろしくなかった。はじめは聞き入れていた奥さんも、また優しく教えていただんなもだんだんギスギスしていて、遂には、

「なにをばかなこといってるんだ。きみはひどいパンやね、と、おこるべきなんだぞ!」

と奥さんを怒鳴りつけてしまう。

 

しかしそこで強いのが奥さん。木の棒を持ち、

「ひどいのは、あなただわ」

とだんなを叩き始める。読み始めには想像もできなかった修羅場だ。

「『おい、きみ、なにをするんだい』

 『ああいえ、こういえって、おせっきょうばっかり。わたしだって、あなたがおもってるほどばかじゃないのに』」

こうなると何をいったらいいのか分からなくなるのはだんなのほうで、あれ、あれ、とだけいって逃げ惑う。そんなだんなにまた腹が立ち、

「あれ、あれしかいえないの?」と奥さん。

「どういえばいいんだい」

 

「きょういちにち、わたしがなにをしていたか、きいてちょうだい。わたしがうちきでも、ばかなことをしても、がまんしてほしいのよ」

 

奥さんは泣いていた。自分が愛しているはずの人に、自分を分かってもらえなかったのが、悲しくて仕方がなかった。

「ぼくは、しゃべるのにいそがしくて、きみのことをかんがえなかったんだ」

 

奥さんとだんなは互いを理解しあい、だんなは奥さんにキスを、奥さんはだんなさんにだきついた。そんな新婚夫婦のお話。表紙のうさぎからはほとんど詐欺に近い、男女の痴話喧嘩の話なのだけれど、『ゴーン・ガール』や『ブルーバレンタイン』を思わせる、“夫婦だって全てを分かり合えるわけではない”という話でとても面白かった。最後に同じにんじんケーキを食べる二人は幸せそうで、そこには言葉なんてものはいらなかった。うっかりいい本。うっかり?

「ときには、だまっているのもいいものよ」

 

「なにも、はなしはしませんでした。」